相撲部屋情報 
片男波部屋

片男波部屋

部屋名
片男波部屋
師匠
片男波 良二 (かたおなみ)
しこ名
関脇 玉春日 (たまかすが)
所属力士数
4 名
主要力士

玉鷲

公式ページ
http://kataonami.com/

住所

日本、東京都墨田区石原1−33−9

その他の情報

1961年(昭和36年)1月場所限りで現役を引退し、以降は二所ノ関部屋の部屋付き親方となっていた年寄・12代片男波(元関脇・玉乃海)が19人の内弟子を集め、同年5月に二所ノ関部屋から分家独立する形で片男波部屋を創設した。ただし、当時の二所ノ関部屋の師匠である8代二所ノ関(元大関・佐賀ノ花)が、前頭・玉響や玉嵐、幕下・玉乃島(後の横綱・玉の海)などの12代片男波の内弟子である力士たちの片男波部屋への移籍に関しては1年待ってほしいと主張したため、とりあえず12代片男波の内弟子の移籍は保留されたままでの分家独立となった。

しかし、それから1年が経過しても12代片男波の内弟子たちの片男波部屋への移籍は実現せず、業を煮やした12代片男波は、1962年5月場所前に玉響改め新川・玉嵐・玉乃島たちの移籍届を日本相撲協会へ提出した。それに対抗して、8代二所ノ関はこの移籍を脱走と見做し、移籍届を出された力士19人中で成年に達していた者たちの廃業届を日本相撲協会へ提出し(玉嵐・玉乃島・幕下の新鋭であった玉兜ら4人は除外された)、8代二所ノ関と12代片男波の対立はさらに深まった。

1962年5月場所が始まっても廃業届を提出された力士たちは本場所に出場できないため、二所ノ関部屋の先代の師匠である7代二所ノ関(元関脇・玉ノ海)が仲裁に入り、8代二所ノ関が日本相撲協会へ提出した廃業届の取り下げと幕下以下の力士の翌7月場所からの移籍を認めることで8代二所ノ関と12代片男波の両者は合意した。しかし、廃業届を出された力士たちは番付を10枚も落とされた上に不出場期間は休場扱いとされてしまい、ほどなくして新川は廃業し、玉嵐の片男波部屋への移籍は翌1963年にまで持ち越されてしまった。

正式に玉嵐らの移籍が認められて以降、12代片男波は玉乃島(玉の海)を横綱にまで育て上げ、1971年10月に玉の海が急逝した後も関脇・玉ノ富士や小結・玉輝山、小結・玉龍などの関取を育て上げた。

12代片男波は自身の定年退職を目前に控えた1987年9月に逝去し、それに伴い、片男波部屋の部屋付き親方である11代湊川(元関脇・玉ノ富士)が13代片男波を襲名して片男波部屋を継承した。13代片男波は、関脇・玉春日や関脇・玉乃島などといった関取を育て上げた。

その後、2010年(平成22年)2月に片男波部屋の部屋付き親方である15代楯山(元関脇・玉春日)が13代片男波と名跡交換する形で14代片男波を襲名して片男波部屋の師匠に就任し、13代片男波は16代楯山を襲名して片男波部屋の部屋付き親方となった。現在は所属力士が4人というごく小規模な部屋となっている。

2019年1月場所において玉鷲が幕内最高優勝を果たし、同部屋では1971年7月場所の玉の海以来48年ぶりとなる優勝力士が誕生した。2020年(令和2年)7月13日には15代中川(元幕内・旭里)による弟子への暴力事件で閉鎖された中川部屋から、幕下・旭蒼天(移籍後に玉正鳳と改名)と呼出1人を受け入れた。

部屋創設以降、所属力士の四股名には12代片男波の現役時代の四股名から取った「玉」という1字を付けるのが伝統とされている。

 

ウィキペディア(Wikipedia)より

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