相撲部屋情報 
放駒部屋

放駒部屋

部屋名
放駒部屋
師匠
放駒 新 (はなれごま)
しこ名
関脇 玉乃島 (たまのしま)
所属力士数
10 名

住所

日本、千葉県船橋市古作4−13−1

その他の情報

2021年(令和3年)12月24日、二所ノ関部屋付きの元関脇・玉乃島こと18代放駒が、同部屋を継承する形で放駒部屋を創設した。旧二所ノ関部屋の関係者は、片男波部屋に移籍した床山1人を除き全員が放駒部屋の所属になった

旧・放駒部屋

「力士は土俵あってこその命。休場は試合放棄と同じ」の名言で知られ、クリーン大関として絶大な人気を誇った花籠部屋(二所ノ関一門)の元大関・魁傑は、1979年(昭和54年)1月場所限りで引退して17代放駒を襲名、花籠部屋の部屋付き親方に就任していた。

1981年(昭和56年)2月1日付で、大ノ国(のち第62代横綱)ら数名の内弟子を連れて花籠部屋から分家独立して放駒部屋を創設、花籠部屋、二子山部屋と共に阿佐ヶ谷勢の一翼を担った。

1985年(昭和60年)7月場所後に一番弟子の大乃国が大関に昇進する。

この1985年(昭和60年)年12月、12代花籠(元横綱・輪島)が自身の年寄名跡を借金の担保にしていた問題の責任を取って廃業した。花籠部屋出身で二所ノ関一門の総帥であった二子山(横綱・初代若乃花)に指名されて、閉鎖された花籠部屋の弟子全員を引き取ることになり、放駒部屋は小部屋から一気に大部屋へと躍進した。

1987年(昭和62年)5月場所で大関・大乃国が全勝優勝して放駒部屋初の優勝を成し遂げる。この年9月場所後に大乃国は第62代横綱に昇進した。また小結・花乃湖などの関取を輩出したものの、1990年代に入ってからは大乃国が引退して部屋の勢力が衰え、2001年(平成13年)1月場所において新十両へ昇進した駿傑が部屋最後の関取となった。

17代放駒は2010年(平成22年)8月に、大相撲野球賭博問題で揺れる中で、現役時代のクリーン大関と言われた高潔さと、長年執行部で発揮した事務処理能力の高さを認められ、第11代日本相撲協会理事長に就任した[7]。2012年(平成24年)1月場所後に退任し、相談役に就任したが、「最悪の時代を乗り切った最大の功労者であると同時に最大の犠牲者」と言われ[8]、理事長在職1年5か月は最短だが、「存亡の危機に大相撲を救った希代の名理事長」と評価された。

2013年(平成25年)2月15日に17代放駒が停年退職を迎えることに伴い、同年2月7日付で放駒部屋は閉鎖され、所属力士や行司ら12人は弟子の大乃国が創設した芝田山部屋へ移籍した。この中には、のちに十両に昇進した魁、若乃島も含まれている。

17代放駒は停年を機に協会相談役就任も断わり、相撲界から距離を置いていたが2014年(平成26年)5月18日午後2時10分頃、東京都西東京市のゴルフ練習場で倒れ急逝した。

 

ウィキペディア(Wikipedia)より

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