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茨城県土浦市出身の現役大相撲力士。田子ノ浦部屋(入門時は鳴戸部屋)所属。本名同じ。身長187cm、体重177kg、血液型はA型。突っ張り、押し相撲を得意とする一方で左四つからの寄りもある。先代師匠13代鳴戸(隆の里)と同じく上手捻りも得意とする。靴のサイズは2018年2月時点で35cm。
好物は煮魚(特にサバの味噌煮)。入門前は野菜嫌いであったが現在では好き嫌いが無いという。最高位は東大関(2017年9月場所、2018年3月場所〜5月場所、2019年1月場所〜3月場所、2019年9月場所)。趣味は音楽鑑賞。メディアによって、高安(晃)の表記も見られる。TwitterとFacebookを利用している。2020年7月、演歌歌手の杜このみと結婚。
父が日本人、母がフィリピン人という家庭に高安は生まれる。土浦第一中学校では野球部に所属し中堅手として活躍していた。AKB48の元メンバーでタレント・女優の秋元才加は幼なじみである。ビジュアル系バンドMUCC(ムック)の元ドラマーSATOちは従兄弟にあたる。横野レイコの取材によれば次男で甘えん坊であった高安は母親にさえ怒られたことがなかったといい、入門後も息子を心配した母が、高安の大好物のビーフシチュー(厳密にはカルデレータ)などを部屋まで届けたことも幾度となくあったそうである。父は「集中力がなく『楽しいことだけやりたい』という子どもだった」と高安の幼少期を振り返る。2018年時点でも、母は東京場所になるとフィリピン料理を部屋の力士の分まで差し入れしてくれるといい、そのメニューはカルデレータ、パンシット・ビーホン(フィリピン焼きそば)、シニガンなど様々である。
子供の頃は野球少年で、小学校4年生からリトルリーグに所属していた高安。当時、巨人で活躍していたドミンゴ・マルティネスに似ていたことから、あだ名は「マルちゃん」だった。中学時代は足に合う靴がないのでサンダルをはいて学校生活を行い、サンダル履きでも足は速かったと母は証言している。中1から塾にも通ったが成績が落ち始めて、中2で少人数制の塾へ見学に行った。そこで講師から「本人のやる気があれば挽回もできるけど、今からじゃ、遅い」と断られると、父は「楽しくやってろ。塾にも行かなくていい」と息子に伝え、職人への進路も考えた。高校進学は難しくなったが“自由の身”となった高安は野球とカードゲームに没頭。午後7時には帰宅して両親が経営するエスニック料理店を手伝った。「横綱の部屋に預ければ運が良ければ関取になれるかも」と考えた父は「見るだけ」と言って高安を車に乗せるとアポなしで鳴戸部屋へ向かった。高安はその時「絶対に嫌だ!」と見学を拒絶していた。中卒後の進路は迷っており、一説には「昼間働いて夜間の学校に行って野球をやりたい」と思っていたというが「身一つで稼ぐ方が性に合う」と結論を出し、父の勧めもあり中学卒業と同時に鳴戸部屋に入門し、2005年3月場所において初土俵を踏んだ。「もともと相撲に大した関心はなかったが、中学卒業を前に興味本位で訪れた鳴戸部屋で、当時の師匠に大きな手や足を触られて褒められると、すぐにその気になった」と当時を説明する報道もある。
入門時で既に180cm・120kg、足の大きさ33cmという恵まれた体格、鳴戸から「ゴムマリのようだ」と評された体質から将来を嘱望されていて、その期待に違わずに順調に番付を上げていった。しかし、鳴戸部屋は昼過ぎまで稽古が行われるなど厳しい環境であり、入門前の陽気さは消えていった。鳴戸部屋の厳しさに耐えられずに都合7度(父は10回以上と記憶している)にわたって脱走したことがあり、部屋があった松戸から土浦まで6時間自転車を漕いで実家に逃げ帰っていた。部屋に連れて帰る前に両親は必ず焼肉の食べ放題に連れて行ったが、その度トイレに行ってくるふりをして逃げた。特に4度目の脱走では、赤信号で停車した隙に、乗っていた車から飛び出したという。脱走に関する本人の記憶は2017年5月場所前の時点では曖昧であり、本人は「(逃げた理由は)大したことではなかったと思うけど。15歳で慣れない環境だったから。いい思い出です」と語っている。ある時両親は、高安がこれ以上脱走しないように鳴戸に対して部屋の力士らにかわいがりを控えるように土下座して懇願したが、高安は「俺は親になんてことをさせているんだ」と自らの弱さを実感した。脱走を繰り返していた頃は稀勢の里にも相手にされず、なかなか稀勢の里に指導してもらう機会が無かった。
脱走の常習犯であったため、若の里は「入ってきた時から別格でしたね」と語る稀勢の里の対極として見ていてロクに期待してはいなかったが、稀勢の里が横綱昇進場所で優勝を果たした直後の雑誌の記事では「元々体の芯はしっかりしているので、幕下ぐらいの時に、もしかしたら関取になれるかも知れないと思いました。それが関取どころか三役に上がって、大関を目指すところまできましたからね」と若の里は高安が出世するにつれて見方を変えたことを話している。転機となったのは2006年に父が腎臓がんを患い腎臓を1個摘出する大手術を受けて経営していた飲食店を手放したことであり、これを本人は大関昇進直後の時期に「父親が望むことは相撲で大成すること。そういう状況で『頑張れ』と言われてすごく身に染みた。ウカウカしていられない。結果を出して喜んでもらいたいという気持ちが強かった。土俵に足がつくようになって番付も上がった」と話している。横野レイコの記事では鳴戸が高安を怒ったことはないとされており、ある日の夜、呼び出されて鳴戸の部屋に行くと、鳴戸は冷蔵庫からアイスを取り出し、食べさせてくれたという。高安は「あの時、厳しくされていたら、今の自分はなかったかもしれない。師匠はよく見てくれていました」と、今は亡き恩師に感謝している。高安の才能を評価していた鳴戸は、ある時期自分の付け人に高安を指名して、手取り足取り相撲のことを叩き込んだ。三段目の上位まで番付を上げた頃、初めて稀勢の里に胸を出してもらったが、その時の感覚を後に高安は「何回ぶつかっても下がらない。全身の関節一つ一つがミシミシ来るような重さを感じた」と振り返る。こうした稽古を含め、1日100番を超える稽古で強くなっていった。食事は1食7品目から8品目で野菜が多く、栄養食により高安の体は強くなっていった。
2010年9月場所では、西幕下13枚目の位置で7戦全勝の成績を挙げて幕下優勝を果たし、内規により翌11月場所において新十両へと昇進し、舛ノ山(千賀ノ浦部屋、高安と同じく日比ハーフ)と共に、平成生まれでは初となる関取力士となった。
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