住所
日本、〒130-0026 東京都墨田区両国2丁目3−15
その他の情報
初代出羽ノ海は寛政の前頭筆頭・出羽海運右エ門である。出羽ノ海部屋を設立し、大関・市野上浅右エ門らを育てた。1808年(文化5年)に鹿間津滝右エ門が2代出羽ノ海を襲名したが部屋は閉鎖された。1862年(文久2年)に桂川立吉が3代出羽ノ海を襲名し、現在の出羽海部屋は3代を部屋の創設者と位置付けている。続く4代出羽ノ海(元幕内・常陸山虎吉)は横綱・常陸山らを育て上げ、5代出羽ノ海(元横綱・常陸山)の時代を迎えると出羽ノ海部屋は栄華を極めた。
5代は大錦・栃木山・常ノ花の3横綱に對馬洋・九州山・大ノ里・常陸岩の4大関などといった数多くの関取を育て上げた。1917年(大正6年)1月場所から1921年(大正10年)5月場所にかけては部屋所属の力士が10場所連続して優勝を果たし(栃木山5回・大錦4回・常ノ花1回)、この記録は現在でも破られていない。
1922年に5代が逝去、弟子の両國が襲名した。この際年寄名跡の表記から「ノ」を取り除き、年寄・6代出羽海となる。これは先代に畏敬を込めてのことらしい。6代の時代も部屋の隆盛は続き、1931年(昭和6年)1月場所および3月場所では番付の西方の20人全てを出羽海部屋の幕内力士で占めるほどだった。
その後、7代出羽海(元横綱・常ノ花)、8代出羽海(元幕内・出羽ノ花)と部屋が継承される間にも数多くの横綱・大関を輩出した。1900年(明治33年)1月場所において常陸山が関脇に昇進してから、1959年(昭和34年)1月場所において横綱・千代の山が引退するまでの60年間・138場所にわたって三役力士在位の記録をつくる。戦時下では部屋が空襲で焼け落ちたが、ほかの部屋のように疎開は行わず、焼け残った一門の春日野部屋を間借りして活動をつづけた。
1968年3月場所中に横綱・佐田の山が現役引退を表明すると8代は部屋を譲り、佐田の山が9代出羽海を襲名。先代からの弟子である横綱・三重ノ海のほか、関脇・出羽の花や小結・大錦など数多くの関取を育て上げた。
1996年(平成8年)2月に9代は日本相撲協会の役職に専念することを理由として部屋の師匠の座を辞し、部屋付き親方の11代境川(元関脇・鷲羽山)と名跡交換を行い、11代境川は10代出羽海を襲名して部屋を継承し、9代出羽海は12代境川を襲名して部屋付き親方となった。1999年7月場所には部屋所属力士の幕内連続在位が101年で止まる。その後鳥羽の山や普天王といった幕内力士を輩出したが、2010年5月場所に十両・普天王が負け越して幕下へ陥落したため、それにより1898年(明治31年)5月場所において常陸山が十両へ昇進して以来、112年ぶりに関取が部屋から途絶えた。
2014年4月に10代が定年退職を迎えることに伴い、部屋付き親方の14代高崎(元幕内・小城乃花)が同年2月1日付で年寄名跡を交換して11代出羽海を襲名して部屋を継承、10代は15代高崎を襲名して部屋付き親方となった。同年11月場所において出羽疾風が新十両へ昇進し、11代が部屋を継承してからは初となる関取が誕生している。 2018年(平成30年)7月場所では関脇御嶽海が1980年1月場所の三重ノ海以38年ぶり、平成時代初となる幕内最高優勝を果たした。御嶽海は2019年(令和元年)9月場所でも幕内最高優勝を果たし、現行の優勝制度発足以降、明治、大正、昭和、平成、令和の各元号で優勝力士を輩出した唯一の部屋となった。
長年にわたり部屋には「分家独立を許さず」という不文律があり、1919年に当時まだ現役力士であった横綱・栃木山が5代からの許可を受けて春日野部屋を創設したのを例外として、それ以外は一門内での独立を一切認めていなかったが、1981年に14代武蔵川(元横綱・三重ノ海)が武蔵川部屋(現在は藤島部屋に改称)を創設して以降、中立部屋(現在は境川部屋に改称)と田子ノ浦部屋(旧・田子ノ浦部屋)が独立している。また、歴代の出羽海は日本相撲協会の要職を担い、5代・6代は筆頭取締を、7代・8代・9代は理事長を務めている。また、10代・11代も理事を務めた。
長い歴史のある部屋ではあるが道場訓は存在しない。
1966年8月の土俵開きと、現存する相撲部屋の中では最も築年数が古い。関取衆の部屋が3階、若い衆の部屋が4階にあり、9m四方の稽古場を初めとして総じて造りが大きい。他の部屋では上がり座敷でちゃんこを食べるが、出羽海部屋ではちゃんこ場の横に食べるスペースがある。
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