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大相撲入門前に相撲の経験は無い。白鷹町立鮎貝小学校在学中は6年間通じて柔道に親しみ、地元の野球チームにも所属していた。中学3年で身長180cm、体重100kgをそれぞれ上回るほどであった。白鷹町立西中学校ではバスケットボール部に在籍する傍らで、かつて13代佐渡ヶ嶽と山形県中学校総合体育大会でしのぎを削った父親の影響で陸上の砲丸投げも始めた。3年次には山形県中学校総合体育大会で13m38cmと大会新記録を出して優勝し、全国大会であるジュニアオリンピック陸上競技大会にも出場している。
その後は、高校でも柔道を続けゆくゆくは警察官となって安定した生活を送りたいと思っていたものの父親の勧めと高田川親方(元関脇・安芸乃島)の熱心な勧誘で大相撲の道へ進むことになり、高田川部屋に入門した。齋藤本人によると、父親はかつて砲丸投げで競い合ったライバルであった13代佐渡ヶ嶽の弟子を齋藤に倒してほしいようであったという。2018年の報道によると、中学で既に注目されている選手が高校の推薦入学の内定を掴んでいたり他の相撲部屋から勧誘を受けていたりするのを逆手にとって、高田川は相撲以外のスポーツに打ち込む子供たちに声を掛けているという。
2011年の大相撲入門の頃は大相撲八百長問題が発覚し、初土俵を踏む予定だった3月場所が中止になるなど角界の先行きが見通せない状況であったが、高田川部屋の雰囲気なら問題はないと決意が揺らぐことはなく、同年3月の新弟子検査に合格して、5月技量審査場所で初土俵を踏んだ。初土俵の同期には千代大龍、照ノ富士、常幸龍、明生、力真らがいる。初土俵時から名乗る「白鷹山(はくようざん)」の四股名は、故郷にある白鷹山(しらたかやま)と、米沢藩第9代藩主だった上杉鷹山(ようざん)が由来である。前相撲は二番出世で、序ノ口に上がった7月場所以降は勝ち越しを続けて番付を上げていた。
しかし、2012年5月場所で右膝前十字靭帯を断裂する大怪我を負って長期休場を余儀なくされ、序ノ口に転落した同年11月場所で復帰した。本人はこの怪我が完全に治ることはないとしながらも、鍛えることはできると前向きな姿勢で稽古に励み、復帰後は勝ち越しを続けた。怪我をしたことについても「引いたら怪我をする」という教訓になり、2013年11月場所で幕下に昇進した。
左右で最高100kgを超える握力が強く、輝からも「力が強い。そして頭もいい。この2つの才能を生かし切れていないだけ」と大器ぶりを評されており、その才能を武器に2015年1月場所では関取昇進も見えてくる幕下15枚目以内の番付に昇進した。幕下上位に上がったこの頃には、中卒叩き上げという経歴が共通する輝の付け人を務めていたことから、早く関取として横に並びたいと目標を語っている。
2016年5月場所では関取まであと1歩の東幕下筆頭まで番付を上げたが、体調不良も重なって得意の突き押し相撲が冴えずに跳ね返された。一時は糖尿病によって体重が20kg近く減少して足踏みしたが、食事療法が功を奏し、2017年5月場所は西幕下7枚目まで番付を戻している。この場所も5勝2敗し、場所後の記事で「圧倒的に負けたのは(2番相撲で戦った、元十両の)大成道戦だけ」と手ごたえがあった様子を語った。さらに「ラッキーで上がるより、自分の力でしっかり幕下上位や十両をねじ伏せて上がりたい」と精神面の充実ぶりをうかがわせるコメントを残した。
2018年1月場所では西幕下8枚目の地位で5勝2敗の成績を残した。この場所は十両から幕下に落ちる力士が多く、新十両の可能性もあったが、東の6枚目で4勝3敗の成績だった炎鵬が優先される形で昇進を逃した。続く3月場所では自身2度目となる東幕下筆頭の地位を与えられ、1番相撲から4連勝として来場所の新十両を当確させた。その後貴公俊の休場に伴う不戦勝も挟んで土つかずの6連勝とし、7番相撲では十両経験者で東幕下53枚目の肥後ノ城との全勝対決に臨んだが寄り切りで敗れ、幕下優勝は果たせなかった。場所後の番付編成会議で、翌5月場所での新十両昇進が決定。山形県出身力士の十両昇進は2008年の北勝国以来、10年ぶり。
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